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池田学 マディソン滞在制作日記


by mag-ikeda

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池田学 / IKEDA Manabu

画家。1973年佐賀県多久市生まれ。1998年東京藝術大学美術学部デザイン科卒業。
2000年同大学院修士課程を修了。 2011年から1年間、文化庁の芸術家海外研修制度でカナダのバンクーバーに滞在。
2013年6 月末より、アメリカ・ウィスコンシン州マディソンにて滞在制作を開始。

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第64便 「初めての絵」
at 2016-07-22 17:48
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第64便 「初めての絵」

力なく震える線。
意思とは裏腹に右往左往するストローク。
指先に感じるどうしようもない違和感。
これまで日常生活はもちろん、一度もペンを持ったことのなかった左手にとってこの任務はハードルが高すぎるのだろう、指先の筋肉から神経まで、全ての器官が戸惑っているのがありありと伝わってくる。
対象をよく観て、それを忠実に写し取るという極めてシンプルな作業。
目からの情報を脳が取り込み空間上のイメージとして再構築、それを信号に変えて送ればほぼ無意識に右手がそれを再現する。
同じ事が左手になると回路が充分につながっておらず、コントロールができないし、それより動かし方がわからない。


葉っぱの形が繋がらない。
均一に塗れない。
茎のラインがあらぬ方向に進んでは隣に突っ込み、はみ出し、止まらない。
まるで初めてローラースケートを履いたような感覚。
頭の中では描けるのに!
今は電池切れのように全く動かない右手の上にはつい先日まで描いていた感覚が触れるほど残っているだけに、この愚かしいまでの不器用さがもどかしすぎる。


だけど一方で、こんなにも描けない自分に笑ってしまう。
こんな感覚は味わったことがなかった…
丸を描こうと思えば描けたし、よく観て描けばその通りになるのが当たり前というか、むしろ描けないということが分からなかった。
そういえば以前、予備校で講師をしていた頃に生徒から「先生はよく観て描けば描けるというけれど、それは先生だからできるんです」と言われたことがあり、その時はそんなことはないと思ったけれど
それはこういう事だったのかもしれない。

不慣れな手を使い、普段使わない側の脳を使う作業は神経はもちろん、目や肩の疲労もたまりやすく、とても長くは続かない。
いつもはテクニックで誤魔化せるところも手を止めてどう表現するか考えなければいけないので、それだけモチーフに目を留まらせる時間も長くなる。
真剣に対象を見つめ、必死で形を追いかけ、言うことを聞かない線と格闘しながらどうにかこうにかやっていく。
そしてようやく姿を現した新しい絵。


不恰好だし、下手だけど、でも嫌いじゃない。
むしろワクワクしたし、ドキドキしたし、モチーフとたくさん会話したぶん、何か心に響くものがある気がする。
自分にもこういう絵が描けたという事が素直に嬉しかった。
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# by mag-ikeda | 2016-07-22 17:48 | Trackback | Comments(0)

第63便 「新たな挑戦」

最初の数週間は検査づくめの日々でした。
ほぼ3日に一度はカレンの車で病院に連れて行ってもらい、様々な検査を受けました。。
普段であれば自分で病院を予約して通院、通訳さんを通して診察を受けるというのが一般的なやり方ですが、美術館で僕の仕事を熟知している彼女のこと、あらゆる手立てを尽くして最善の治療を受けられるよう動いてくれました。
元ドクターである夫のマイケルさんも毎日家で僕の症状を聞き、その場で診察と助言をしてくれ、その間カレンはいろいろな人から情報を集めて、どこで治療を受けるのが僕の手にとって最善かを調べて予約し、時には心理学的立場から僕の声を聞いてくれたり。
日々の食事や生活の世話、そして診断や心のケアまで。
これほど手厚い看護を一体誰が受けられるというのでしょう。


病院にはいつもカレンと、彼女の友達で日系人でもあるミナさんが通訳として付いてきてくださいます。
僕の怪我の経緯の説明はもちろん、僕の仕事がいかに細くて、いかに右手が重要かをカレンが切々と説明してくれるおかげで、素晴らしいドクター達に囲まれ,皆が一団となって僕の右手を少しでも早く回復させようとしてくれるのを感じるたびに、言葉では言い尽くせない感謝と幸福感、
しかし一方で、自分のしてしまった過ちの重さに苛まれる日々。
しなくてもいい怪我をしてしまった自分のせいで、こんなに大勢の人を巻き込んでしまっている。
僕の個展のために動いてくれているギャラリーや美術館の方々にも迷惑をかけてしまっている。
日本に帰ってはや9ヶ月、遠い場所から、少しでも制作に集中できるようにと子育てを一手に引き受けて応援してくれている妻の心を裏切ってしまったという気持ち。
カレンの家での生活は僕にとって長年憧れていた生まれて初めてのホームステイ。
家族と離れて一人暮らしの上に今回の怪我が重なったことで図らずしてこの夢が叶い、毎日の英会話や習慣の違いに驚いたりアタフタしたりと落ち込んでる暇がないほど慌ただしい毎日でしたが、
毎晩一人になるとこうした思いに苛まれ,神経のダメージからくる手の痺れや肩の痛みも重なって、今思えば本当に辛い時期でした。


しかし一方で、塞ぎ込んでいく気持ちに発破をかけてくれたのが、先日亡くなった会長の存在でした。
ほとんど動かない右手を見て落ち込みそうになった時に、何度会長に語りかけたでしょうか。
あの何事にもポジティブで、今自分が置かれた環境を精一杯楽しんでいた彼はその都度、
「なんだそのくらい!神経が切れてなくてラッキーじゃん!ちょっと右手には休憩してもらって、その間左手で描けばいいだけやん!」っとケロっとした顔で言うのでした。
その言葉もさることながら、実際に彼が示し続けたあの頃の姿勢が僕の気持ちを奮い立たせ、ようし、それならと左手で描くという挑戦を始めさせたのでした。


「人生は何が起こるかわからない。後悔しても起こったことは仕方がない。
それよりも、それをどう生かし、どう作品に繋げていくかが作家としての本領なんじゃないか。」

ピンチはチャンス。
これで最高の作品ができればそれこそ怪我の功名、みんなの恩に報いるにはこれしかない。



これまでの人生でほぼ一度もまともに使ってこなかった左手。
自分の体の一部でありながら特別注目されることもなく、ほとんどの時間を右手の保護としてしか登場することのなかった左手。
よくよく考えてみれば右手と機能は同じものなわけで、鍛えようによってはそれ同様、もしくは全く別の潜在能力を秘めているかもしれない左手。
これを使わずしていつ使う!?


42年目にして初の主役への抜擢。
責任と期待を一身に背負い握りしめた拳に、力がみなぎっていました。
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# by mag-ikeda | 2016-07-08 12:48 | Trackback | Comments(0)

第62便「ケガ」

人生には予期しない事が起こります。
作品の完成まで1年を切り、さあラストスパートでエンジン全開と思った矢先、怪我をしてしまいました。
しかも商売道具の右腕を。
診断は右肩脱臼。
脱臼の際に筋肉と一緒に神経が伸びてしまったらしく、右手は痺れてほとんど動かず、かろうじて人差し指と中指がピクピクと動くだけ。
まさに地獄に突き落とされたその日は、年も明け、作品も完成に向けいよいよ上部に取りかかろうかという矢先の、1月半ばの日曜日でした。


その日眼が覚めると外は真っ青な快晴。
久しぶりに寝室いっぱいに差し込む柔らかで明るい陽の光。
年末年始もスタジオで作品にかかりきりになっていた僕は、こんな日くらいは仕事を休んで疲れを癒そうと、午後から近所のスキー場に行く事にしました。
久しぶりに走る日中の雪道は日差しも照りつけ、張り詰めた気持ちがみるみる和らいでいきます。
その時僕の頭にあったのは、青空の下で2、3時間、ちょっと滑って帰ろうという、それだけのものでした。
今絶対に怪我はできない状況は十分わかっていたし、日頃から気をつけて生活していたつもりでした。


しかしスキー場に着いた瞬間、めったに会わないスキー仲間に会ってしまったのが今思えば運のツキだったのかもしれません。
10代の彼らは僕を見るなり「一緒に滑ろうぜ!」と誘ってきます。
ここ数年、時々仕事後に夜1時間ほど一人で滑っていた僕はその呼びかけが嬉しく、日中の開放感も相まって彼らと一緒に滑る事にしました。
いつもなら慎重にウォーミングアップをする自分がこの時はやはり随分舞い上がっていたのでしょう、準備運動もろくにしないまま彼らについて行きました。
そして滑り始めてわずか15分、ここでいいとこ見せてやれとジャンプして着地した刹那、右ひざを捻って転倒、その際右手をおそらくついたのでしょう、そのまま転がり脱臼。


瞬間襲ってきた想像を絶するような痛み。急速に広がる手の痺れ。
あまりの激痛に気が遠くなりながらも、仲間が呼んでくれたパトロールを待っている間に頭を回り続けたのはただただ夢なら覚めてくれという願い。
2日後に控えた日本からの取材。雑誌のインタビュー。作品の締め切り。来年の個展のスケジュール….様々なことが途切れ途切れに駆け巡り、どうしよう。どうしよう。。。
わずか数分前の自分、目覚めた朝の空の青さ、スキー場へと続く道の穏やかな景色…
なぜスキーに行こうと思ったんだろう、なぜ一瞬躊躇しなかったんだろう、なぜ….
もし天気が悪ければ、もし友達と会わなければ、もしあの時….
過ぎてしまった数分前の過去にすがりつき、今の現実に惨めなほどに逆らい、目の前の明るい雪面と、今では違う世界になってしまった自分以外の人々と風景が、ただただ残酷だったのを覚えています。


こんな時期にスキーに行ったお前が悪いと言われればそれまでですが、ジャンプ自体はもう10年以上やっていることで特別無茶をしたわけではなく、それよりも普段から怪我をしないよう人一倍気を使っていた自分が、
わずかな偶然の積み重なりでこんなにもあっけなくタガが外れてしまうということが情けなく、またショックでした。
今思い出してもあの時の思考回路は魔が差したとしか思えないほど軽率だったのだったけれど、自分は落るべくして落とし穴に落ちたのです。要はやはり認識が甘かったということです。
と同時に、こんなにも突然に、それまでの日常は変わってしまうのだということが信じられませんでした。


パトロール小屋に運ばれていろいろと当時の状況を尋ねられます。
痛みで意識が朦朧としている状況で英語を話すというのは、それは過酷なものです。
パトロールは常に最悪な状況を考えて行動するので、やたらに動かしたり水を与えたりはしません。
僕が頭を打っているかもということも想定して意識確認を行うのですが、僕は頭は打っていないことははっきりと分かっていて、質問は分かるのだけど、ただこの場で英語を喋るほど冷静でもいられず、とにかく痛くて気絶をしてしまいたいと願っていたほどでした。
「目を開けて!酸素を吸って!」気絶もさせてもらえず、なんとか質問に答えているうちに救急車が到着。
そのまま乗せられて揺れる車内で夢よ覚めよと願いながら痛みに耐え、街にある大きな病院の救急外来に着いたのは怪我をしてから約2時間後のこと。


病院に着くなりいろいろと診察され、よくわからない専門用語が頭上を飛び交っているのをただ聞いているうちにマスクをつけられ、「ちょっと眠ってね。」と言われて医師が出て行き、気付いたら痛みが嘘のように消えていました。
自分ではずっと起きてて先生の帰りを待ってたつもりがコロリと眠らされ、その間に外れた肩がきれいに戻されていたのです。
その後MRIやレントゲンを撮り、手の動きや感覚を確かめた上での先生の診断は、
「脱臼。それに伴う神経損傷」
というものでした。



救急外来で処置を受け帰宅した翌日、後悔と懺悔の念に打ちひしがれ、未だ呆然とした状況の中、友人たちがスキー場まで車を取りに行ってくれたり家に来て簡単な食事を作ってくれたりしました。
家族が全員日本に帰っている今、これからあらゆることを左手一本でやらなければならないことへの絶望感。
1日前までの日常がすっかり変わってしまったことへの現実をなお受け止めきれず、自分でも笑ってしまうほど全く動かない右手を力なく見つめるだけ。
これまで意識することなく勝手に動いていた右手が、今では重さ数キロのただの肉の塊。こんなにも重さのあるものだとは考えたことさえもありませんでした。


診察の結果わかったことは、脱臼した際に外れた肩と一緒にその下を通っている右手の神経も伸ばされ、筋肉とともにダメージを受けているというもの。
ただし切れているわけではないので、弱いものの感覚はあり、指先はわずかですが動きます。
これからいろいろな検査をすることでもっと具体的な内容が分かるものの、回復には数か月を要するだろうということでした。
神経が切れるという最悪の事態は免れたので一応はホッとしましたが、家族が日本から帰ってくる春までこの極寒の土地で、一人ですべてのことをやらなくてはいけないという試練と、
右手が使えなくなった今どうやって作品を作っていけばいいのかという絶望感、予想される莫大な治療費、ギャラリーや美術館への説明責任…
消えてしまいたいような思い。


それにしてもあの一瞬で。
やはりどうやっても信じられない。
あんな一瞬の判断ミスでここまでいろんなものを失ってしまうとは。
時々「もし右手が使えなくなっても左があるさ。左も駄目なら口で描く」などと思ったものでしたが、それは現実を知らない甘ちゃんの戯言でした。
どんなに気合を入れようが精神を集中しようが、目の前のコップが空に浮かないのと同じ。
動かないもんは動かない。
たかが脱臼でこんなになるか?
よく千代の富士やスポーツ選手が脱臼で痛そうな表情してたのをテレビで見てたけど、ここまでじゃなかったぞ
などと漠然と思いを巡らしていた時、玄関のドアがノックされました。
知らせを聞いたカレンが旦那さんのマイクと一緒に飛んできてくれたのでした。


開口一番「これから簡単に荷物をまとめて家にいらっしゃい。私の家には部屋も空いてるし、マイクもドクターだからマナブの症状も診てあげれるし、
なによりお風呂や食事も一人じゃできないでしょ。十日ほど様子見て動けるようになったら帰ればいいんだから。」


なんというありがたい申し出。
とにかくこうして怪我の翌日から、カレンの家にお世話になることになりました。
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# by mag-ikeda | 2016-06-24 20:05 | Trackback | Comments(0)

第61便「Karen」

美術館にはたくさんのDocent(ドーセン)という人たちがいます。
聞きなれない言葉ですが、いわゆる美術館のガイドさんのことで、定年後の学校の先生たちが中心で、ボランティアで団体客や子供達に美術館を案内しているのです。
僕のスタジオにも毎日ドーセンのおばさんが見学者を連れてきて、僕のことや作品について説明をしたり、見学者が作品に触れないように監視してくれています。
皆いろいろと気にかけてくれていて、スイーツや花、僕の興味のありそうな記事の切り抜きなどを持ってきてくれたり、中には夕食に招待してくれる人までいます。

その一人がKaren(カレン)さん。
心理学者、そして会社組織のカウンセラーでもある彼女は、とにかくフレンドリー。
最初は僕の週一回の英会話の相手だったのが、やがて食事に誘ってくれたり遊びに行ったり、そして今では娘達のおばあちゃん代わりまで。
僕らが忙しかったりどちらかが風邪を引いた時などは子供達を遊びに連れて行ってくれるのです。
とにかくいろいろと世話を焼いてくれる彼女。
こういうことに慣れていない僕らは最初、「なんでそこまでしてくれるの?」という疑念が消えませんでしたが、カレンさんの人柄に触れるうちに、彼女はただ純粋にしてあげたいことをしてくれているだけなのだということに気がつきました。


いろいろな事に興味があってとにかく話好きのカレン、話していて気まずいということがありません。
これまでも何人かネイティブの人に英会話のパートナーになってもらいましたが、聞くのも話すのも本当に楽しそう。
こちらのたどたどしい英語にも耳を傾け、さらに会話を広げてくれるので自然に雰囲気も盛り上がり、話しているこっちも自信がついてきます。
心理学者ということもあって会話術に長けているというのもあるかもしれませんが、それ以上に人のことを知るという探求を心から楽しんでいるのが伝わってきて、それが相手の心を和ませるに違いありません。


自分の限界を定めずに、幾つになっても旺盛な好奇心と常に前向きな思考で人生を楽しんでいるカレンのような人が、ここには多いような気がします。
我々日本人は、相手を思いやる気持ちはあっても、恥ずかしさや気遣いが邪魔をしてなかなかダイレクトに行動に移すことはできませんが、彼女を見ていると、自分の気持ちにまずは正直に行動してみることの大事さがよくわかります。
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# by mag-ikeda | 2016-06-11 14:07 | Trackback | Comments(1)

第60便「新しい命」

11月に三女が生まれました。

次女のここでの壮絶な帝王切開から2年。
まさか三女が生まれるとは正直予想してなかったのは僕だけで、待ち望んでいた妻は大喜び!
…というのは若干オーバーだけど、でも「子供は4人以上!」と言ってはばからなかった妻にしてみれば目的達成のためには早ければ早いほど良い!
というわけで今回の出産と相成りました。


「もう二度とアメリカで帝王切開はしない!」
という妻のたっての願いとちょっと諸々諸事情あって、僕を残して日本に家族が帰ったのは昨年5月。
出産予定は11月で、赤ちゃんが飛行機に乗れるくらいまで育つのと極寒の冬が終わるのを待って、帰ってくるのはおそらく今年の3月。
約10ヶ月の一人暮らしです。


僕としては寂しい反面、作品だけに集中できるのでスピードアップも見込める上、降って湧いたような久しぶりの独身生活、しかもアメリカで!
始まった当初こそいろいろ戸惑ったものの、10年以上の東京での自炊生活の勘もすぐに戻ってきて、毎日スタジオに出かけては、夜は有り余った時間を釣りに行くもよし!
英語の勉強するもよし!クライミングに行くもよし!
食事作りもまぁ楽しいもんです。
なによりスタジオにいる時はもちろん、それ以外の時間も何者にも邪魔されず作品のことだけを考えていられる日々。
こんなにも作品だけに時間を捧げているのは二十歳の頃、来る日も来る日もデッサンに明け暮れていた浪人生以来のことです。


それはともかく、無事に産まれてくれてよかった。
今回の出産も必ずしもすべて順調なわけではなく、いくつかのハードルがありましたが、先日の親友の死と時をほぼ同じくして誕生したこの新しい命。
たくさんの想いや希望とともに、こうして受け継がれていくのですね。
大切に大切に、育てていかねばなりません。



出産は僕の代わりに長女が立ち会ったそう!
いや〜さすが女の子、たくましい。

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# by mag-ikeda | 2016-06-04 12:48 | Trackback | Comments(0)